西国街道とのお付き合い
西国街道とは何
昭和29年(1954)に広島県佐伯郡観音村(翌年五日市町に合併)に生まれた私は、幼少期から広島市内へ出向く際に、広電楽々園電停の北側に東西に続く松並木を通り、通常電車かバスを利用していました。岡の下川(通称三筋川)の東岸には、三里の里程を記す石柱と御筋橋の親柱があったことを想い出します。戦後の復興が行われていた元安川東岸には、原爆ドームから元安橋に至り、緑地公園として整備され花時計の傍らに石柱が置かれ、「広島市道路元標」※1と読み取ることができました。己斐町の旧道には広島観音高校通学の折に、路線バス通りに数本の老松があり、運転手も上手くハンドルを操作していました。
発行:広島市中区役所市民部地域起こし推進課
こうした幼年期から学生時代への想い出が、その後の「西国街道」への研究に繋がったとは、現在の西国街道ブームを見るにつけ、今昔の感に堪えません。昭和40年代から地元新聞各紙を始め、マスコミ各社は「旧山陽道」と見出しを付け、広島県内の近世山陽道(西国街道)についての報道が相次ぎました。
※奥の石柱が「広島市道路元標」です。
街道研究を開始
奈良大学在学当時に、古代官道は大宝律令(701年制定)に基づき、京師=帝都から五畿内(大和・山城・河内・和泉・摂津の五国)を通り抜け、東国へは東海道・東山道・北陸道が、西国へは山陰道・山陽道・南海道・西海道が、全国68の令制国の各国府へ至ることを学び、山陽道は唯一の大路と知ったのです。
卒業論文は「芸備両国の条里遺構」と題し提出しましたが、その発端は『広島県史』(原始・古代編)の調査執筆に当られた、条里制(じょうりせい)※2 研究の第一人者である米倉二郎広島大学名誉教授から、県内各地に遺る条里型地割(じょうりがたじわり)の実地調査を依頼されたことで、その際に条里基線(じょうりきせん)には山陽道が利用されたと報告しました。
広島県西部の安芸国内の条里遺構(じょうりいこう)を調査すると、古代山陽道(影面[カゲトモ]の道)は、東部の東広島市から大山峠を越え瀬野川筋を下り、畑賀から甲越峠から府中(安芸国府・安芸郡家の故地)に至り、温品・中山・戸坂から太田川・古川を渡り、古市から安川筋を遡り伴・石内・八幡と山道となり廿日市へと至ります。
その後官道としての山陽道に関しては、平安時代初期の『延喜式』記載のルートとしての命脈は絶ち、中世は群雄する武家の城下町や有力社寺の門前町や瀬戸内の港湾を結ぶ経路となり、室町時代初期には今川了俊『道ゆきぶり』の記した海辺の道へとなり、「灘見の道」へと趣を替え戦国乱世へと至ります。
毛利元就と陶晴賢との厳島合戦で戦勝を収めた毛利氏は、広島湾岸の政治的安定を第一に水陸交通を発展させ、これが毛利輝元による天正17年(1589)の広島築城となし、二年後には完成入城を見たのです。当時の山陽道は府中・矢賀・尾長・二葉の里から、白島・楠木・山手を結び己斐へと向かっていました。
江戸時代の広島藩政を纏めた地誌として、頼杏坪らの編纂した『芸藩通志』には「山陽道」の記載は控え、官道驛站(かんどうえきたん)※3 として「西国路」の解説が載ります。古代山陽道から近世山陽道へと、明らかにルートが変更されたことが分り、何時しか広島藩内では「西国街道」の呼称に概ね統一された感があります。
萩藩の図師・有馬喜惣太の描いた『中国行程記』には、そのルートが見事に描かれ現存する旧街道筋も確認できます。なぜ広島城下の北辺を通る山陽道が現在のルートとなったのか、二代城主の福島正則の城下整備の際に、現在の広島本通に正式に付替えたと、河合正治広島大学名誉教授から伺いました。
それで私は、古代山陽道を始め中世の想定路や近世初頭の新旧の街道筋を、現地調査を目的にそぞろ散策することとなり、広島大学図書館・文学部国史研究室、広島市の広島城博物館・郷土資料館・中央図書館・公文書館、県立図書館・県立文書館などにて情報収集し、自ら散策地図を作成したのでした。
西国街道を称賛
建設省中国地方建設局(現国土交通省中国地方整備局)からの依頼で、平成元年(1989)から4年を掛け「中国地方歴史のふれあい回廊」の策定を行い、中国地方5県と政令指定都市広島市の協力で、歴史を活かした地域づくりを目的に近世主要街道を基本に、中国地方全域に12の主要歴史街道を選んだのです。
その際に近世山陽道として西国街道を加え、萩藩や福山藩は山陽道と広島藩は西国街道と呼ぶことで、東端の船坂峠から西端の関門海峡まで、岡山・福山・広島・萩の各藩領を通る道筋を整備し、現代社会へ文化遺産の継承を願い、城下町・宿場町・門前町・港町・在町など、見事に甦らせた経験があります。
中国・地域づくり交流会(会長:平岡敬元広島市長)の下で、「歴史を生かした地域づくり研究会」にて代表世話人として「歴史のふれあい回廊」を具現化させ、その後には「歴史国道」や「夢街道ルネサンス」や「日本風景街道ちゅうごく」※4 に繋がり、「西国街道散策会」会長に就き西国街道をそぞろ散策しました。
江戸開府400年記念事業として平成15年(2003)に、「西国街道フォーラム」を広島市まちづくり市民交流プラザにて開催し、東広島市・海田町・広島市・廿日市市・岩国市から、ボランティアガイドの会の方々に、西国街道の魅力づくりと街並散策の問題点について、大いなる活発な論議が起こりました。
その際にゲストとして「広島本通商店街振興組合」から望月理事長を迎え、西国街道を400年間その賑わいをお守り頂いたとして感謝状を送り、併せて本通の路面上に西国街道・旧五町名・旧外堀城門・二本の堀川の銘板設置を要請し、同年計9枚の銘板が敷設され、16年間馴染のある景観となりました。
それで、前述のマスコミ各社に対して、「旧山陽道」の表記を改め「西国街道」にする要請を開始し、広島市域は古代官道と近世街道を完全に分離し、古代山陽道(影面の道)と西国街道(近世山陽道)とすると、確約を得たことで西国街道は共通認識となり、ルートについても幾多の著作や地図類に掲載されました。
街道散策の手引
平成17年(2005)は広島被爆60周年にあたり、被爆の実相を伝え戦後の復興を目的とした広島市では、被爆以前の広島の姿を見直し歴史を後世に伝えることに方向展開させ、「ひろしま八区覧会・八区物館」を開始し、広島観光の基幹として「西国街道めぐり」の基本構想に対し、企画提案をさせて頂きました。
原始時代から広島城築城までを「ひろしま」、広島藩政から軍都広島までを「廣(広)島」、戦後復興から百万都市誕生までを「ヒロシマ」とし、殊に戦国乱世から江戸時代に至る城下町広島を対象に、史実を明らかにしつつ史跡を訪ねる方策を講じ、広島市全域に歴史街道を設定し散策の手引を作成しました。
それが、古代山陽道(影面の道)・出雲石見街道(雲石路)・西国街道(近世山陽道)・三田往来(三篠川水運)・都志見往来(岡岷山絵巻)の五つで、これに広島城下町(街並と堀割)を加え、「歩けば歴史が見えてくる」を体現できるべく、『ひろしま八区ぐるっと散策「みち」めぐり』の散策地図の編集作成を開始したのです。
「ひろしま歴史街道トリップ実行委員会」を地域散策ガイドの実践団体共同で結成し、座長として私は八区の公民館や諸街道にて講演会や散策会を開催し、「ひろしまの文化はみち(街道)の歴史から始まる」ことを伝え、「すべてのみちはひろしまへ」とした、地域体験型の公開実践講座を展開させてきました。
広島市中央公民館では「広島城下町案内衆」を結成し、『広島城下大絵図』を始めて『広島城北大絵図』『広島城南大絵図』『広島城東大絵図』を作成し、来年度は『広島城西大絵図』の作成を予定しています。これらの実践活動から平成26年(2014)には、「ひろしま文化賞」を頂き、各方面から注目されています。
30年余の「西国街道」とのお付き合いはこれからも深めてみたく、市民の皆様には是非歴史街道散策を実体験して頂きたく、「広島城下・まちなか西国街道」も夢街道ルネサンスに登録され、広島駅南口と平和公園を結び、江戸時代以来の賑やかな道を抜け、東西の郊外へ向けて街道散策を楽しんでください。