宮島の町並み
宮島町の町並みは西町と東町からなり、その成立過程と性格が異なっています。
西町は、厳島神社・大願寺・大聖院などを核として、宗教行為や参詣活動を成り立たせる基盤を持った町として成立し、社家社官の屋敷や酒造等の祭祀と生活を支えた職人等の住まいである町家が通りに沿って建ち並びました。
東町は、戦国期の頃までは、山手に小規模な集落としてある程度でしたが、有之浦の海岸造成と町家通りの本格的整備を契機として、町並みは浜と平行な弓状の通りに沿って広がり、瀬戸内海に開かれた本格的な港町兼門前町として発展していきました。
江戸期には、広島藩による商工業者への手厚い支援や,富くじ・芝居興行などの興行政策もあって参詣者が増加し、歓楽機能を備えた商業町・港町として発展しました。
宮島では、戦国時代に由来する地割りを残しており、江戸期から昭和初期に至る伝統的な町家、山麓に位置する寺社建築や社家住宅が補完し合い一体となって、全体で門前町としての歴史的風致をよく伝えています。
町並みは、令和3年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
御手洗の町並み
御手洗は、瀬戸内海のほぼ中央に浮かぶ大崎下島の東端部に位置し、江戸時代、航海技術等の進展により、御手洗の沖合が潮待ち・風待ちの適地として注目され、寛文年間にこの地に集落が形成されました。また,西廻航路の整備後は、北前船などの大型船の航行が増加し、御手洗は港町として急速に発展しました。
御手洗の町並は、江戸時代中頃から幕末にかけて形成されていった町の形態や構造が良く残っており、近世から近代にかけての伝統的建造物とともに高燈籠や雁木等の歴史的港湾関係遺構も保存され、瀬戸内の潮待ち・風待ちの港町として歴史的風致をよく残しています。
平成6年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
塩と竹原の町並み
塩づくりは中世から近世初頭までは,小規模な塩田で行われていましたが,江戸時代に入って,塩田の築造に大きな資本と工事を必要と注力する一方で、効率的に大量の塩を生産することができる入浜式という技術が赤穂で開発されました。赤穂藩主浅野家は広島藩主浅野家の分家であったこともあり,広島藩でもいち早くこの技術を導入した塩田が築造されました。
広島藩領内初めての入浜式塩田は,慶安3年(1650)に竹原で導入されました。その後も塩田は拡張され,竹原の塩田は県内最大の塩田に発展しました。ちなみに備後地区も同時期に松永で備後最大の塩田が開発されています。
「塩田の町」として飛躍的に発展した竹原は、豊かな経済力を背景に頼春水・春風・杏坪の兄弟など,多くの優秀な学者を輩出しました。塩田と町人文化の隆盛が生んだ家々と町並みは,昭和57年に重要伝統的建造物群保存地区にも選定されました。
鞆の浦の町並み
鞆の浦は、万葉の時代から海上交通の要衝として、瀬戸内で栄えた港町の一つです。この大きな要因は、瀬戸内海の中央部に位置し、往時、潮流の変化を待って航海をしなければならない「潮待ち」に最も適していたからです。
細い路地には江戸時代の港町の風情がそのままの姿で残され、町を散策しながら当時の雰囲気を感じることができます。そして、朝鮮通信使のための迎賓館として使われた福禅寺対潮楼からは、「日東第一形勝」と称えられた、美しい景色を見ることができます。
平成29年には国から重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
上下の町並み
江戸時代に、石州街道の宿場町であった上下は、福山藩の水野家が断絶後、徳川幕府の幕府領(天領)となり、代官所(陣屋)が設置されたことで、周辺の幕府領を統括する拠点として発展しました。
その後は、上下陣屋が、石見銀山の大森代官所の出張陣屋となり、幕府の後ろ盾もあったため、金融貸付業が盛んになりました。最盛期には33軒もの金融業者が軒を連ね、さまざまな商人も集まり、まちは商業の町としても発展し、現在の白壁の町並みの基礎が形作られました。
今でもメインストリートを歩くと、江戸時代の町屋・旧田辺邸をはじめ、大正時代の芝居小屋「翁座」など白壁やなまこ壁、格子戸といった懐かしい町並みが続いています。