福山城の歴史
歴史年表
- 1619年
- 徳川幕府から西国鎮護の拠点として、水野勝成初代藩主が10万石を得て大和郡山より入封(にゅうほう)した。
- 1620年
- 福山城築城開始。
-
1622年
〜1869年 -
福山城完成。地名を「福山」と名付ける。
歴代の藩主は、水野家5代、松平家1代、阿部家10代と続いた。 - 1873年
- 廃城となり、多くの城の建物が取り壊された。
- 1945年
- 8月8日の福山空襲により、国宝に指定されていた天守閣と御湯殿が消失。
- 1966年
- 市制50周年事業として天守閣、御湯殿、月見櫓が復元され、天守閣は福山市の歴史を伝える博物館として運営。
- 2019年
- 初代藩主水野勝成入封400年
- 2022年
- 福山城築城400年
歴代藩主
広島歴史年表はこちら水野勝成
福山藩水野家初代藩主
1564年(永禄7年)三河国に生まれる。
勝成の父である忠重の姉は徳川家康の生母であり、家康と勝成は従兄弟同士である。20歳の時に父の寵臣を切って流浪、佐々成政・小西行長・加藤清正・黒田長政などに仕えた後、35歳で徳川家康の仲介により水野家に帰る。
1600年(慶長5年)父の死後、刈谷3万石の領主となり、関ヶ原の合戦では西軍の大垣城を降した戦功により日向守に任じられ、更に大坂冬の陣、夏の陣での功により大和郡山にて6万石封じられることとなる。
その後、安芸広島・備後一帯を治めていた福島正則が改易されたことにより1619年(元和5年)56歳の時に福山藩の初代藩主となる。
福山城築城、城下町の整備、干拓、治水工事など福山の礎を築いた他、神社仏閣の修理や再建にも力を尽くす。
1651年(慶安4年)3月15日に88才で死去、寺町の賢忠寺にて葬られる。
阿部正弘
福山藩阿部家7代藩主
10代正精の6男として1819年(文政2年)江戸藩邸で生まれた。1836年(天保7年)、18歳で家督を継いだ。1838年(天保9年)、越前福井藩主松平治好の次女松平謹子を妻に迎えた。同年奏者番、1840年(天保11年)には寺社奉行兼任、1843年(天保14年)9月には25歳の若さで老中に抜擢、翌年2月老中首座となる。
その後日光東照宮の修繕、海岸防備、江戸城西の丸の造営などが賞されて、1万石加増。
1853年(嘉永6年)6月ペリーの浦賀来航、1854年(安政元年)3月の日米和親条約の締結にいたる開国問題を老中首座として指揮した。正弘は1857年(安政4年)6月に没するまで老中の座にあり、英・露・蘭の三か国と和親条約、下田条約の締結を行うも、同年6月17日、39歳の若さで病没した。
幕政としては徳川斉昭・松平慶永・島津斉彬などと連携をとり、優秀な人材を積極的に登用したことが挙げられる。川路聖謨や堀利熙の他、高島秋帆、勝海舟等である。
また、文武一体の教育を進め、江戸と福山に藩校誠之館を設立し、藩士の人材の養成と登用の道を開いた。
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