令和元年(2019)は元和5年(1619)の浅野氏広島入城から400年という節目の年でした。天正17年(1589)毛利氏による広島築城の開始から数えると、430年にもなります。今日の広島市の都市的発展の起点が、毛利輝元による広島築城であることはいうまでもありません。しかし、城下町の建設に深くかかわった出雲国の商人平田屋佐渡守(惣右衛門)の存在は、一般にはあまり知られていないようです。
令和元年からちょうど200年前の文政2年(1819)に編さんされた広島城下町の地誌『知新集』(『新修広島市史』第6巻)には、平田屋佐渡守(惣右衛門)のことは、次のように記されています。
平田屋佐渡守は出雲国の出身で、尼子氏の時代には「佐渡」と名乗り、新田を開発して「平田」と名付けて、やがて家名としました。彼はのちに「惣右衛門」と改め、広島築城時に毛利氏の招きに応じて広島に来て、家地30間を与えられ、町人頭として町中の支配にあたりました。毛利氏が彼を呼び寄せたのは、彼が「城普請・町割」などに巧みであったからで、専らこのことに従事しました。
慶長5年(1600)福島正則が広島に入部したとき、惣右衛門は出雲国に帰って剃髪して「宗加」と名乗っていましたが、福島正則に呼び戻され、広島の城下町の大年寄役を命じられました。
平田屋町(現在の中区本通の東半分に相当)は、かつて平田屋惣右衛門がここに住んでいたため町名となり、橋を平田屋橋、川を平田屋川(現在の並木通り・地蔵通りに相当する運河)と呼びました。
以上が『知新集』の内容です。『知新集』は「平田屋惣右衛門」と記していますが、広島築城前後の史料には「平田屋佐渡守」として現れるので、以下では平田屋佐渡守と呼ぶことにします。
出雲国における平田屋佐渡守(「平田屋」)の活動については、断片的な資料をつなぎ合わせていくと、おぼろげながらその姿が浮かび上がってきます。「平田屋」という屋号をもつ有力商人が杵築(出雲市大社町)の町にいたことは、天正4年(1576)の段階で確認できます。続いて「平田屋佐渡守」が、天正16年(1588)9月、平田保(出雲市平田町)の領主である吉川広家の「代官」を務めていたことが、熊野権現宮(出雲市平田町の宇美神社)の棟札で確認できます。広島築城開始以前のことです。
また、「平田屋」が杵築の町に間口が10間半(約19メートル)という大きな屋敷を構えていたこともわかります。「平田屋」という屋号は、彼がもともとは平田の出身で、活動の本拠を杵築に移し、平田と杵築の間の交易などを担う商人であったことを意味するものです。『知新集』が、「佐渡」(惣右衛門)が新田を開発して「平田」と名付け、そこに住んだとしているのは、事実誤認です。
さらに重要なことは、平田屋佐渡守が「杵築御蔵本」の一人でもあったことです。「蔵本」は、年貢米の収納・管理・支出などを行って、大名や領主の財政に深く関与する特権的な商人です。平田屋佐渡守は、広島築城以前から、出雲国で吉川氏や毛利氏と深いかかわりを持っていました。彼が広島に招かれたのは、土木の才能や経験だけではなく、その経済力にも期待されたからだと思います。
平田屋佐渡守のもともとの出身地である平田は、宍道湖の西岸に位置し、古くから交通・商業の要地でした。天正3年(1575)伊勢参宮からの帰途、この辺りを通った島津家久の「中書家久公御上京日記」によれば、平田の町と宍道湖は、蓮の花が咲き乱れる低湿地を通る水路で結ばれていました。宍道湖の水運を利用すれば、東岸の松江方面ともつながっています。西は杵築町と陸路で結ばれており、日本海の水運ともつながっていました。
毛利氏が尼子氏と覇権を争った時期も、平田は戦略上の要衝として重視され、毛利方によって平田城が築かれ、毛利方の物資の集散地・中継地となっていました。
ところで、『知新集』によれば、平田屋佐渡守は「城普請・町割」などのことに巧みであったと記されています。「町割」とは、現代用語でいえば、「都市計画」「都市開発」、あるいは「まちづくりのグランドデザイン」といったことばに相当するようです。平田屋佐渡守が描いた城下町広島のグランドデザインとは、どのようなものであったのでしょうか。
毛利氏は、「佐東」と呼ばれていた太田川河口のデルタ地帯に、広島城と城下町を建設しました。江戸時代の絵図を見ると、城下町と瀬戸内海は、「平田屋川」(並木通り・地蔵通りに相当)と「西堂川」(現在の紙屋町交差点から広島市役所前に至る電車通りに相当)という2本の運河で結ばれています。
「広島絵図( 元和五年御入国之砌御城下絵図)」(広島市立中央図書館浅野文庫蔵)
この工事は、築城と同時並行で進められ、「堀川普請」と呼ばれていました。「堀川普請」には、吉川広家の家臣団や「石つき之もの共」と呼ばれる石垣築造の職人集団が参加していたことも史料的に確認できます。私は、広島の「町割」に平田屋佐渡守を起用するよう毛利輝元に進言したのは、吉川広家だったのではないかと考えています。
道路についていえば、古代以来、太田川河口デルタのはるか北側を迂回していた山陽道は、広島築城にあわせて城下に引き寄せられました。城下に入った山陽道が、広島城の東側の外堀(八丁堀)から南へ流れる水路(平田屋川につながっていました)を渡る橋が平田屋橋です。平田屋佐渡守の屋敷があったのもその場所でした。近くの歩道にはめ込まれた銘板に「西国街道 平田屋町」「「平田屋川」にありますので、ぜひご覧ください。
このことは、城下町と瀬戸内海を2本の運河で結び、山陽道を城下町に引き入れるという「まちづくりのグランドデザイン」を描いたのが平田屋佐渡守であったことを強く示唆していると思います。さらに想像をたくましくすれば、平田屋佐渡守が構想のヒントとしたのは、宍道湖と水路でつながり、杵築とは陸路で結ばれて、出雲国中部の中心的な都市として発展した平田の町の姿だったのではないでしょうか。
『知新集』によれば、平田屋は七代目に至り家が衰え、ついには新組足軽となり、天明年間(1781~1788)頃、平田屋町から退転したと伝えられています。