解説集

コラム

広島城下絵屏風の広島・令和の広島

広島城では、浅野氏広島城入城400年に併せて広島市が修復した、広島市指定重要有形文化財「広島城下絵屏風」を、9月7日から10月14日まで展示いたしました。この屏風原資料の公開は、平成6年(1994)が最後で、今回の展示が令和初公開でした。

この「広島城下絵屏風」は、今から約200年前、江戸時代後期の広島城下町の様子を視覚的に伝える数少ない絵画資料です。西国街道沿いを中心に、城下町とそこに集う人々の暮らしの様子を、四季の移り変わりに併せ生き生きと描いています。当時の広島も、西日本有数の賑わいを見せていたのです。

しかし、令和の現在を生きる多くの方は、城下町広島の活気を感じながらも、この絵屏風の中の世界は昔々のことで、文字通り「絵空事」のような感じがするかもしれません。そのため、「ここに描かれている道筋は現在でもほぼ歩くことができますよ。」と言うと、びっくりするのではないでしょうか。

それでは、令和の今の広島を、城下絵屏風に描かれた広島と比べながら西国街道沿いに東からたどってみましょう。

まずは猿猴橋から京橋に向かいますが、現在は、駅前通りが街道だった所を分断しているので、横断歩道に迂回しなければなりません。しかし、城下絵屏風に描かれている西国街道で、現在通ることができない道筋はここだけです。

近年建てられた「西国街道」の道しるべを見ながら京橋を渡り、同じような道しるべの立つ幟町の青柳屋付近(絵屏風の中では酒屋、祭具の店がある付近です。)から、絵屏風にも描かれていた正光寺前を南下していきます。江戸時代にはなかった銀山町の電車通りを超え、もみじ銀行本店の横を通って、ポプラの角(絵屏風では、傘張職人が描かれています。)からえびす通りを再び西に進みます。(西国街道には、仏だん通りを通る道筋もありますが、ここには描かれていません。)

金座街から南下して本通商店街に入ると、江戸時代のメインストリートだった本通には今も多くの店舗が並んでいます。さらに西に進むと広島城下の起点だった元安橋に到り、橋を渡ると、かつては繁華街だった中島の平和公園に入ります。江戸時代から被爆後まで、当時の中島本町には、橋を渡ってすぐ城下町特有のクランク状に折れ曲がる道がありましたが、戦後の平和記念公園整備の際、緩いS字カーブを描く道になっています、本川橋(江戸時代は猫屋橋と呼ばれていました)を渡るときには、絵屏風の本川西岸に描かれたのと同じ場所に、雁木(階段状になった船着き場)を見ることができます。

堺町をさらに西に進んでいくと、天満橋(古くは小屋橋とも呼ばれました。)まで到り、絵屏風の西端に達します。

 

こうたどってみると、屏風の絵と見比べながら実際に今の西国街道筋を歩いてみたくなりませんか? 当時と同じように、あるいはそれ以上に賑やかな場所もあれば、残念ながら同じ西国街道筋でも、明治、大正、昭和、平成、令和と時を経るにつれ、新しい道や新しい繁華街が生まれたことで、かつての賑わいを失ってしまった場所もあります。

浅野氏が広島にやって来て後、整備が進み、広島を支え続けた西国街道を、今また広島の大動脈として、新たな賑わいの創出に活用しようという動きも起こっています。原爆で広島の歴史は失われたと思う人もいるでしょうし、確かに、断ち切られ失われたものは少なくありません。しかし、今でも歩き続けることができる西国街道沿いに、広島の歴史は連綿と続いているといえるでしょう。

コラム著者 : 前野 やよい氏(2019年現在)

  • 広島城主任学芸員

著書・論文

  • 「えがかれた江戸時代の広島」(図録の作成)
  • 「感謝・還暦!広島城 ~よみがえった城」(図録の作成)

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