江戸時代の文化
学問と教育の浸透
広島藩では学問を重んじ、教育の仕組みを整備していきました。7代重晟は儒学者頼春水を招聘し、武士教育のための学問所を開設(現修道中学・高等学校)。春水は朱子学を広め、藩の学制の統一に努めました。長男の山陽が書いた『日本外史』の草稿は、没後出版され幕末のベストセラーとなり、尊皇攘夷運動に影響を与えたといわれています。山陽は文学や芸術にも長け、多くの作品を生みました。
朱子学派以外にも高名な学者が多く輩出し、闇斎学派の植田艮背、折衷学派の香川南浜、陽明学派の吉村秋陽・斐山父子などが実績を残しています。
今に伝わる武家茶道 上田宗箇流
広島藩の家老であり、茶人としても知られる上田宗箇が興したのが茶道上田宗箇流です。
宗箇は、豊臣秀吉の側近として多くの功績を残した名武将。千利休から茶を学び、次いで古田織部の門下となりました。浅野幸長の代から和歌山城主に仕えていましたが、元和5年 (1619)長晟が和歌山城から広島城に入城した際に同行。広島の地に根づく茶の文化を形成しました。
武家茶道は、明治になり藩の解体とともに消失した流派が多いのですが、上田宗箇流は豊臣秀吉時代の華麗な桃山文化を継承し、武家茶の文化を今に伝えています。
宗箇は造園家としても優れ、浅野家の別邸・縮景園を作庭しました。中国杭州の西湖を模して縮景したともいわれる庭園で、中央に設けた池に大小10余りの島を浮かべ、周囲には山・川・滝・橋・茶室などが巧妙に配置されています。池の水は京橋川から取水し、やがて流川となって広島湾に至ります。
● 上田宗箇流 公式サイト http://ueda-soukoryu.com/
和歌など文芸の広がり
庶民の楽しみとして文芸も浸透していきました。18世紀中ごろから藩士を中心に広がっていた和歌は、裕福な町人や農民も教養としてたしなむようになりました。連歌は浅野長晟・光晟父子が熱心に取り組み、次第に町家にも広がりを見せたようです。狂歌は町人文芸のひとつとして、早い時期から広島でもてはやされていました。町大年寄を務めた芥河貞佐は狂歌作家としても著名で、千人ほどの門人がいたともいわれています。
武士も庶民も楽しんだ祭り行事
広島城下では、さまざまな祭礼も行われていました。城内三の丸稲荷(いなり)社(現在社殿の一部が府中町多家神社宝蔵)祭礼、胡子祭、厳島管絃祭の御供船などが主なものとしてあげられます。
城内三の丸稲荷社には普段入ることができない庶民も、初午祭礼のときは参拝が許されていたため、数万人もの人で賑わったといいます。胡子祭りは商家の祭りから発展したもので、現在も開催。広島の三大祭りのひとつと呼ばれ秋の風物詩となっています。
通り御祭礼(とおりごさいれい)
広島市内にも徳川家康をまつった東照宮があります。広島東照宮は、浅野家広島藩2代藩主光晟(みつあきら)の母が家康の娘であることから、家康の33回忌である慶安元年(1648)に造営されました。この広島東照宮の祭礼が「通り御祭礼」(大御祭礼とも)で、家康の没後50年ごとに行われました。幕末の動乱や相次ぐ戦争により一時中断した歴史がありましたが、平成27年に200 年振りに復活しました。
「二百貫神輿(にひゃっかんみこし)」と呼ばれ、東照宮と同じ時期に製作されたといわれる凡そ1トンの巨大な神輿は、檜材に黒漆と金梨地塗による華麗なもので、原爆の被害からも免れて平成27年の祭礼でも担がれました。
江戸時代の「通り御祭礼」の詳細は広島城下の地誌『知新集』に記されています。最も盛大であった文化12年(1815年)の祭礼では約2000人が行列に参加し、刊行された「東照宮御祭礼略図絵」には、城下町五組が作成した華麗な石引台(山車)に子供たちが乗り、住民たちが鼓笛などで囃し、芸能などを披露しながら練り歩く様子が描かれています。
宮島管絃祭
厳島神社最大の祭典は、旧暦6月17日に行われる「管絃祭」です。「おかげんさん」「十七夜」ともいわれます。平清盛が都の文化を伝えたことが始まりといわれ、文献では戦国時代から記述が見られます。
江戸時代の宮島では春・夏・秋に市が立ちましたが、管絃祭のある夏市は最も賑わいました。祭は市立てに始まります。3隻の和船を組んで御座船にする「御船組」や周辺地域の住民が参加する「御洲掘り」などの行事を経て、当日を迎えます。夕刻、神社の火焼先を出発した御座船は、阿賀(呉市)と江波(広島市)の船に曳航されて夜の海を進み、対岸の地御前神社に至ります。その後、長浜神社、大元神社を経て深夜本社へと帰ります。船上では管絃が演奏され、かつてはこの祭典に参加する船は、広島近郊にとどまらず、遠く四国や九州からも集まりました。神社周辺の浜辺は色とりどりの旗や幟をはためかせた船で埋め尽くされ、参道や西松原には露店が建ち並んで、大変賑わいました。
管絃祭は平安時代から続く祭事ですが、御供船が始まったのは江戸時代のことです。
当日に管絃船に寄り添ってお供をすることは大変名誉なことで、城下各町から華やかに飾った御供船が管絃祭前夜に一斉に宮島に向かい、管絃祭の翌朝に城下に戻りました。
管絃祭は宮島だけでなく、広島城下を巻き込んだ一大行事となっていました。船飾りは各町が互いに競い合ってどんどん大きく華美になり、見物客も増加していきましたが、明治になり川に橋がたくさん架かるようになると、背の高い船は通れなくなり次第に廃れていきました。
宮島の庶民文化
宮島には長い歴史の中で多くの文化人も訪れ、様々な都の文化が伝わりました。室町時代以降、厳島神社の能舞台では神能が、天神社では連歌の会が催され、島民も多く参加して盛んに行われました。
江戸時代の宮島は広島藩の芸能文化の中心的な存在で、中でも「宮島芝居」は特に注目されます。始期ははっきりしませんが、江戸初期の松本山雪筆「宮嶋図屏風」には人形芝居の様子が描かれています。当初は仮小屋での芝居でしたが、そのうちに厳島神社の裏手に常設小屋が作られました。
管絃祭が行われる夏の市では西国の商人が多く集まり、相撲や歌舞伎、浄瑠璃なども興行されて、多くの人で賑わいました。盆には、念仏踊りのひとつ「宮島踊(多賀江念仏)」が、ゆったりと優雅な所作で踊られます。長く農耕をしてこなかった宮島では、八朔(旧暦8月1日)に農作物の実りを祈り感謝する祭として「たのもさん」が行われます。
多くの文化芸能に接してきた宮島では、俳諧や和歌といった文芸、能楽の謡や仕舞に親しむ島民も多く、かつては長唄や三味線の音色が格子の並ぶ町並みに流れていました。
娯楽と厳島神社への参拝、日本三景のひとつとされた景勝は、江戸時代後期の旅行ブームの中で評判が広まり、全国から多くの人々が訪れました。