広島藩とは
広島藩は、江戸時代有数の大藩
広島藩とは、広島城を居城とした外様の大藩です。福島氏の時代には安芸・備後の2国全てを領国とし、浅野氏の時代は安芸国一円と備後国8郡で、現在の広島県の約8割の面積でした。
広島藩がどれくらい大きな藩だったか見てみましょう。
国とは、奈良時代の律令制によって区画された名称で、江戸時代には行政区分としての役割はなく、地理的区分の呼称でした。一方、藩とは大名に与えられた領知を指し、国を分割して与えられることもあるため、国の範囲と藩の範囲は一致しません。
国は68存在しましたが、藩の数は約300。1つの国を複数の藩が分け合って領知とすることも多く、例えば伊予国(現愛媛県)の中には、5つ以上の藩がありました(時代によって変動)。一国以上を領知とする藩主は、国持大名とも呼ばれる有力大名だったのです。
そんな中、安芸国全土と備後を含む広島藩は、石高も42万6000石を誇り上位に位置する経済力を備えた大藩で、幕府への影響力も大きい存在でした。
それを裏付けるもののひとつが、江戸の藩邸です。多くの藩が江戸城下に上屋敷を持ち、離れた場所に中屋敷や下屋敷を持っていましたが、浅野氏は江戸城下に2つの藩邸がありました。有力な藩でも江戸城下には上屋敷1邸が普通でしたから、幕府と広島藩の関係の深さを物語っています。広島藩邸の所在地は、現在の霞が関(国土交通省庁舎)と永田町(国会議事堂)の場所です。また少し離れたところに中屋敷もあり、現在は赤坂サカスが建っています。
広島の風土が経済発展を後押し
中国山地から、なだらかな丘陵地帯を経て瀬戸内海まで、山、川、里、海、島がある広島藩。山間部と沿岸部で異なる気候や風土がある変化に富んだ地勢です。「日本の縮図」とも呼ばれた多様な自然環境が多くの農水産物を育み、さまざまな産業を生み出したことが、広島藩を強固で豊かな藩に育んでいった要因のひとつでもあります。
江戸時代、特に大きく変化・発展したのは沿岸部です。三角州で、ほとんどが干潟だった広島の地は、広島城付近で海抜3.5メートル。築城当時の海岸線は平和大通りくらいと推定されています。その先に広がる干潟は江戸時代にほとんど干拓し、陸地が拡大。草津や五日市、海田市のあたりもどんどん干拓が進みました。新しく生まれた土地が都市の発展を促すとともに、農地としても藩の発展に寄与しています。多くの人が流入し、人口も内高も増大。浅野氏の治める広島藩はより強大な藩へなっていきました。
ところで広島では、土地の開発が古来から盛んでした。低地の植生は本来クスノキやカシなどの照葉樹林ですが、山間部ではたたら製鉄、沿海部では製塩に使う薪炭の伐採などが進み、本来の自然林はほとんど残っていません。現在の広島に、アカマツなどの二次林、戦後の植林によるスギやヒノキが多いのは、そういった背景があるのです。
「広島」の名前の由来
佐東郡 五箇村と呼ばれていたこの地を、「広島」と名付けたのは毛利輝元で、広島城築城の鍬入れのときに命名したといわれています。由来には諸説あり、もっとも有力なものは地形にちなんだもの。広島は太田川河口域の三角州にあり、今の平和大通りの先は干潟で、島や中州が点在していました。白島地区や比治山も陸続きではなく、築城の場所がデルタの中の広い島だということから広島と名付けたといわれています。
もうひとつの有力説は、人名に由来したものです。毛利家の祖先である大江広元(源頼朝の側近)から「広」の字と、元々この地の豪族で築城に大きく関わった福島元長の「島」の字を組み合わせたものとも考えられています。
西日本最大の大名である毛利家が広島に居を構えるのは、戦国の時代から泰平の世を見越し、かつ広島の地の利を理解していたということでもあります。とはいえ、新たに築城して本拠地を移し、山城から平城に変えるということは、毛利家および領地の将来に関わる一大事業でした。「広島」は新たな土地で新しい藩政を構築すべく、願いをこめた命名だったことでしょう。
浅野氏の治世
浅野氏の経歴
福島氏の改易(領地・官職の没収)後、広島城主となったのが浅野長晟です。以降12代長勲までの250年間、浅野氏が代々広島を治めました。浅野氏とはどのような経歴を持つのでしょうか。浅野氏の年表はこちらから
浅野氏のルーツは尾張国(現愛知県)にあり、長晟の父・長政は織田信長・豊臣秀吉に仕える武将でした。信長亡き後、秀吉の下で出世を遂げた浅野長政は、近江国(現滋賀県)で2万石を与えられ大名となり、京都奉行への任命を皮切りに若狭国(現福井県)で8万5000石、続いて長政と、長男幸長は甲斐国(現山梨県)21万5000石を与えられ、次々と出世を遂げていきました。
幸長は家督を継ぎ、関ケ原の戦いの活躍により紀伊国(現和歌山県)37万6000石を与えられ、和歌山で城主となります。ところが慶長18年(1613)、嫡子のないまま若くして病死しました。そして浅野家を継いだのが、次男長晟28歳のときでした。
長政・幸長父子は武将としてだけでなく、行政手腕にも優れていたため、家臣の中には次男長晟に不安を感じる者もいたようですが、長晟は大坂冬の陣・夏の陣で戦功を上げるとともに、家康の三女振姫を正室に迎えたことで家臣を納得させました。周囲をも納得させる、徳川家から大きな信頼を得たことは、長男嫡子光晟が元服の際に松平安芸守を名乗ることを許された証となっています。
広島入りした長晟
長晟が2代将軍徳川秀忠から5万石を加増され、和歌山城から広島城に入城したのは元和5(1619)年のことです。長晟は広島入城直後から、農民支配の大綱を示した郡中法度を申し渡しました。
福島時代の年貢・小物成(こものなり・雑税の総称)で郷蔵(ごうぐら)に保管されているものの明細を書き出させると同時に、田畑耕作や貢租、竹林の伐採を厳重に取り締まることなどを布達し、蓄えの把握と税収の安定を図りました。
続いて四家老を東城(現庄原市)・三次・三原・小方(現大竹市)に配知し、郡村にはおよそ5000石単位で代官と各種奉行を配置することにより領内を細かく管理すると同時に、家臣団に対しても藩士の知行割や行政機構の見直しなどを行い、行政制度を充実させました。
領国統治の体制
領国支配については、町方・在方・浦方を区別し、管理体制を整備しました。町方には、広島城下をはじめ、三次・三原・尾道・宮島を指定し、町奉行を配置して支配体制を整えました。在方とは農業を行う郡村のことで、貢租徴収の基盤です。郡中支配のしくみを整え、走り百姓(農民が許可なく土地を離れること)を禁止して農業労働力を確保し、灌漑施設を整備するなどの農政を展開しました。浦方には沿海・島しょ部の郡村を規定し、船奉行の支配下に置き、水主役(かこやく)負担を義務としました。
広島城下町においては、太田川を基準に、広瀬・中島・白神・中通・新町という5つの町組を配置し、町組ごとに大年寄を置いて、寄合によって自治的な町政が運営されました。
また、本川や京橋川の下流部分には、干拓により新開地として新しい村々が誕生していきました。これらは新開組と呼ばれ、城下の一部とされました。
耕地の拡大と海運の発展
新田開発として、広島城下の河口域は大規模な干拓が進められ、新開地はどんどん拡大していきました。広島には多くの人が流入し、民間の新開事業も活況でした。当初、城下町を取り囲むように広がった干拓は、仁保や江波、観音などへも進み、毛利の時代には島だった比治山や仁保島(黄金山)、江波島も陸続きになりました。
海運も追い風でした。瀬戸内海は従来から大坂や九州方面からの船舶の重要な航路でしたが、さらに寛文12(1672)年には、西廻り航路が新たに開設されました。これは日本海側の船が日本海を南下して下関から瀬戸内海に入り、大坂・江戸に向かうという航路で、これにより広島藩領の廻船業は大きく発展しました。
浅野長晟について
浅野長晟は1586年、近江滋賀郡坂本(現滋賀県大津市)で浅野長政の次男として生まれました。豊臣秀吉に仕えた後、関ヶ原の戦い以後は徳川家康に従いました。1610年に備中足守で2万4,000石を与えられましたが、長兄・幸長(よしなが)が病死したため、家督を相続して紀伊和歌山藩主となりました。大坂冬の陣では木津川口の戦いに参戦したほか、夏の陣では、樫井の戦いで塙直之らを討つ功績を挙げました。
1619年、福島正則が改易されると、その後を受けて、5万石加増されて42万6000石となり、安芸広島へ移住されました。広島城に入城した長晟は、反抗的な重臣を抑え、当主としての権力を強化して家臣団を掌握しました。1632年、享年47歳(満46歳)で広島城内で死去。享年47歳(満46歳没)。家督は次男の光晟(みつあきら)が継ぎました。この時、長男の庶子長治に5万石が分知されました。
浅野家略系図
浅野家は浅野長政を始祖とし、忠臣蔵でおなじみの播磨赤穂藩浅野内匠頭長矩は浅野家の分家(宗家は広島)です。
長矩のもとへ初代三次藩主長治の娘、阿久利姫が嫁ぎました。
◆ 歴史資料
藩主 | 在任期間 | 主な出来事 | ||
---|---|---|---|---|
初代 | 長晟 | ながあきら | 1619~32年 | 広島入城。 反抗的な重臣を抑え、家中をまとめる |
2代 | 光晟 | みつあきら | 1632~72年 | 広島湾の大干拓。 広島東照宮を建立 |
3代 | 綱晟 | つなあきら | 1672~73年 | 在職半年余りで病没 |
4代 | 綱長 | つななが | 1673~1708年 | 厳しい倹約令や鉄・紙の藩専売制を実施。 「忠臣蔵」で知られる赤穂事件が起きるが 連座を免れる |
5代 | 吉長 | よしなが | 1708~52年 | 職制改革で人材を登用。 藩学問所を開き「当代の賢侯第一」ともたたえられた |
6代 | 宗恒 | むねつね | 1752~63年 | 災害などで抱えた債務を 財政改革(宝暦改革)で整理 |
7代 | 重晟 | しげあきら | 1763~99年 | 宝暦改革を継承。 頼春水ら儒学者を登用し、藩学問所を再興 |
8代 | 斉賢 | なりかた | 1799~1830年 | 文教政策が充実。 地誌や歴史書を編む。 |
9代 | 斉粛 | なりたか | 1831~58年 | 凶作に加え、緊縮財政が行き詰まる。 饒津神社建立 |
10代 | 慶熾 | よしてる | 1858年 | 在職半年で病没 |
11代 | 長訓 | ながみち | 1858~69年 | 藩政改革を目指すが、 幕末の動乱に巻き込まれる |
12代 | 長勲 | ながこと | 1869~71年 | 版籍奉還で知藩事に。 廃藩置県反対の武一騒動に対応。 1937年まで存命した「最後の殿様」 |