解説集

江戸以前のひろしま

鎌倉幕府から守護に任じられた武田氏は、その権限や権益を基に安芸国に支配基盤を固めていきました。守護解任後もその支配力を維持し、南北朝時代には安南郡・佐東郡・山県郡を分郡とする分郡守護に任じられました。支配拠点は武田山周辺(現・安佐南区)であったと考えられています。
この現在の市街地中心部よりも北側の、安佐南区祇園から緑井・八木あたりは、武田氏の本拠であったこと、古くは荘園の倉敷地が設けられていたこと、太田川・瀬戸内海の水上交通路と東西南北の陸上交通路の結節点であったことなどから、流通経済活動が盛んに行われ、経済的にも政治的にも中心地でした。

毛利元就が支配する前の広島県にあたる地域には、武田氏をはじめ多数の国人が領地を持っており、その中の天野、毛利、平賀、小早川、阿曽沼、高橋、野間、吉川などの有力な国人たちが領主連合・同盟関係を築いて、地域の秩序維持に努める風土が形成されていました。そして近隣の山陰では尼子氏が、山口では大内氏が勢力を伸ばしていました。

「郡山城中心一円図」安芸高田市歴史民俗博物館蔵)
「郡山城中心一円図」安芸高田市歴史民俗博物館蔵

大永3年(1523)に家督を相続した元就は、当初尼子氏方に属しましたが、同5年(1525)に大内氏方に寝返り、以後同陣営の安芸・備後両国における軍事指揮官として活動します。 享禄2年(1529)(または享禄3年(1530)という説もあり)、大内軍・備後国衆和智(わち)氏・安芸国衆宍戸(ししど)氏の援軍を得て、尼子氏方となった高橋氏を攻め滅ぼします。 これにより、高橋氏が有していた大内氏方の安芸・石見両国の国衆連合の主導者(盟主)の地位と高橋氏の所領は元就が継承することとなりました。 こうして、毛利氏は安芸・備後・石見三国における国衆連合の主導者としての地位を確立し、これはその後の毛利氏の戦国大名化の基盤となりました。

天文10年(1541)に武田氏が滅亡すると、元就は広島湾付近にも勢力を拡大していきます。その後元就は、瀬戸内海に水軍を持っていた小早川氏に三男の隆景、安芸・石見に勢力を持っていた吉川氏に次男の元春を養子として送り込み、それぞれの家を継がせました。元春は山陰の押さえとなり、隆景は瀬戸内海で水軍の統率に活躍し、「毛利両川体制」が成立しました。

元就は,大内氏から離れ、弘治元年(1555)の厳島合戦で、大内氏の実権を握った陶(すえ)氏を破ります。
その後、弘治3年(1557)に山口の大内氏を滅ぼし、ついで永禄9年(1566)、尼子氏を降伏させ中国一円を制圧しました。
安芸国の国人領主であった毛利氏を、一代で西日本最大の戦国大名へとのし上げた毛利元就は、今もなお名将として広くその名を知られています。

毛利元就肖像画 安芸高田市歴史民俗博物館蔵
毛利元就肖像画
(安芸高田市歴史民俗博物館蔵)

毛利元就

明応6年(1497)~ 元亀2年(1571)

明応6年(1497)⽗弘元の次男として誕⽣後、猿掛城で⻘年期を過ごしましたが、兄興元とその⼦幸松丸の相次ぐ死去により27歳で家督を相続。
以後、⼤内⽒と尼⼦⽒の勢⼒圏の狭間で巧みな調略を⽤い、⼤内⽅として次第に安芸の中心的な勢力となります。その後、大内氏から自立した元就は、弘治元年(1555)の厳島合戦で、周防の陶⽒を破り、永禄9年(1566)、尼⼦⽒を降伏させ中国⼀円を制圧しました。
元⻲2年(1571)、生涯本拠地とした郡⼭城において75歳で死去。
彼の死後も、⼀族の結束により⽑利⽒は⼤名として存続し、幕末の志⼠にも元就の存在は⼤きな影響を与えました。
以後、今日まで郡山西麓の墓所に眠ります。

郡山城(広島県安芸高田市吉田町吉田)

郡山城空撮 安芸高田市歴史民俗博物館提供
郡山城空撮 安芸高田市歴史民俗博物館提供

国史跡「史跡毛利氏城跡」、日本百名城(No.72)。
安芸毛利氏の本拠城として知られる郡山城は、吉田盆地を見渡す可愛川と多冶比川の合流点の北側に築かれ、戦国期では西日本最大級(東西1.1km、南北0.9m)の山城として知られます。

歴史

築城の時期は不明ですが、15世紀中頃には毛利氏の城としての存在が確認できています。当初は「本城」とよばれた東南の支尾根上が城の中心で、元就が台頭した16世紀中頃に郡山全山を城郭化したといわれています。その後、輝元時代に広島城へ本拠が移り、関ヶ原合戦後の毛利氏の移封により城としての役割を終えました。

構造

山頂(標高390m、比高190m)にある本丸を中心として放射状に300箇所以上の郭が築かれており、毛利氏が使用した戦国期の遺構がほぼそのまま残ります。本丸などの山頂部は「かさ」と呼ばれ、元就とその家族が生活したと考えられています。ここには石垣の跡や瓦の断片が散見されることなどから、輝元時代の16世紀末に大幅な改修が施されていることがわかります。また中心部を取り囲む各尾根上には、家臣が居住したと思われる郭群が形成されています。一方、本城は戦国初期の形態を残しているといわれ、基本的には土造りで本格的な石垣は確認されていません。さらに山麓部にも家臣団が居住し、城内外を区画する内堀が巡っていたことが判明しています。

本丸 二の丸 安芸高田市歴史民俗博物館提供

本丸 二の丸 安芸高田市歴史民俗博物館提供

年表(毛利元就~江戸~現在のあゆみ)

元就の死後は、孫の輝元が、叔父の吉川元春と小早川隆景に支えられ、毛利家の繁栄を守りました。
羽柴(豊臣)秀吉軍と交戦しますが、天正10年(1582)の本能寺の変後に和睦を結びます。そして、小早川隆景とともに豊臣政権の五大老を務め政権の重鎮となりました。
輝元は、天正17年(1589)瀬戸内海に面した太田川河口に近世城郭と城下町の建設に着手します。
諸説ありますが、これが「広島」の誕生とも言われています。
2年後の天正19年(1591)には、輝元は広島城に入城を果たしていますが、慶長5年(1600)関ヶ原合戦後「周防・長門」へ転封になってしまいます。
しかし、輝元が築城した広島城は、福島氏、浅野氏と城主を変え、広島の町は、江戸の世の広島藩の政治・経済の中心として発展していくこととなったのです。

毛利元就墓所 安芸高田市歴史民俗博物館提供

毛利元就墓所 安芸高田市歴史民俗博物館提供

毛利元就 郡山城入城
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