広島百景

大瀛(だいえい) [ 1759~1804 ]

大瀛が葬られている勝円寺の写真

安芸国山県郡中筒賀村(山県郡安芸太田町筒賀)津和野藩主亀井家御典医森養哲の三男として生まれ、12歳の時に安芸国報専坊の慧雲※の開く私塾「甘露社」に入門し、18歳の時に上京しました。本山の学林で勉学後河内国(大阪府)の法性寺に滞在し、同寺の僧超の代理で「浄土和讃」を講じ名声を得ました。その後、寺を転々としたのち、俗事を避け、沼田郡楠木村(広島市西区)に私塾を構え、子弟の教育に努めました。当時、京都の学林の代表である能化智洞※が「三業帰命説(さんごうきみょうせつ)」という説を主張し、その主張を巡って真宗の僧俗の間で論戦が起こり、暴動等の混乱が全国的規模に波及しつつありました。この本願寺派最大の宗義騒動といわれる三業惑乱(さんごうわくらん)で、大瀛は「横超直道金剛錍(おうちょうじきどうこんごうへい)」を著し、学林側に理論的な打撃を与えたと言われています。
※没年は諸説あり
参考文献 「国書人名辞典」岩波書店(1993.11~1998.11)3巻P105
     「日本思想辞典」山川出版(2009.4)P593
     「広島県大百科事典(上下)」中国新聞社(1982.11)下P15

校正 広島県立文書館

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