江戸幕府との関わり
中央政権から見た西国の重要拠点
現在の広島県域は古代の安芸国と備後国にほぼ合致し、政治・経済的な地位は戦国時代につくられ徐々に確立されていったものです。天文10年(1541)、毛利元就が大内軍に加勢して、安芸国分郡(佐東・安南・山県郡)の守護で、佐東銀山城の城主であった武田元繁を攻め、滅亡させて以来、毛利氏の勢力は一気に拡大。安芸国を中心に中国地方一帯が毛利氏の領地となりました。毛利元就は、吉川家・小早川家にそれぞれ養子を出すことで縁組をし、中国山地や瀬戸内海を強力に支配。揺るぎない領地と権力をつかみ、今日につながる基盤をつくっていきました。
天下統一を図る織田信長や豊臣秀吉にとっても、磐石な毛利の存在は大きいものでした。関ヶ原の戦いの後、毛利氏が広島城を去り、福島氏、浅野氏と領主が変わり広島藩として発展しますが、朝廷や幕府など中央政権から見て西国の重要拠点だったことに変わりはなく、大きな関心を注がれた地域でした。
徳川将軍家と浅野氏のつながり
広島城3人目の城主であり、浅野氏の初代広島藩主である長晟は、豊臣秀吉の死後から徳川家康に仕え信頼を得てきました。長晟による初期の藩政を支えたのは、幕府との強い結び付きだったといえます。 慶長18年(1613)28歳で家督を継いだ長晟がまず取り組んだのは、徳川家との関係強化でした。亡くなった兄幸長の娘春姫を尾張藩主徳川義直に嫁がせ、婚儀を盛大に行って浅野家の権威を示しました。さらに翌年、家康の3女振姫を自身の正室に迎え、大名として揺るぎない地位を確立。将軍家との縁組は、浅野家家臣の統制にも追い風となりました。 長晟に嫁いだ振姫は、嫡男光晟を出産の後、16日目に亡くなりますが、2代広島藩主となる光晟は徳川家康の外孫であり、3代将軍家光と従兄弟であったことで、幕府と広島藩は深い血縁関係によって結ばれていました。松平を名乗ることを許されるという名誉を受け、広島藩主は歴代「松平」を唱えるようになったのです。これは徳川家からの信頼やつながりの深さを示すものです。さらに光晟は、祖父である家康を祀る広島東照宮を建立し、徳川家との近さを誇示しました。
ときは流れ天保4 年(1833)、9代藩主斉粛は正室を将軍家から迎えます。11代将軍家斉の24女で、12代将軍家慶の異母妹にあたる末姫です。徳川将軍家からの正室を迎えるには莫大な費用が必要となりますが、幕府との良好な関係の構築により、広島藩は安定的な地位を確立させました。諸大名家との関係の強化にも役立ち、幕府からのさまざまな許可事業も優遇され、藩の発展に大きな影響を与えたといえるでしょう。
幕末における広島藩の役割
広島藩は幕末から明治維新にかけても重要な役を果たしています。幕府と諸藩の間を取り持ち、調整に動いていましたが、その活躍はあまり知られていません。
禁門の変に端を発した、元治元年(1864)第一次長州征討では、征討軍の本営が広島城下に設置され、10藩、2万6000人の軍勢が広島に集結しました。この時は攻撃開始の前に長州が降伏したため、戦争は回避されました。長州藩の使節と幕府側の会談は広島の国泰寺で開かれましたが、交渉の段取りや立会いを行ったのは広島藩でした。広島藩はもともと長州攻めに反対で、11代藩主長訓は、長州と幕府の間で和平に向けて努めたといわれています。
慶応2年(1866)の第二次長州征討でも広島に本営が置かれました。広島藩は反対するも功奏せず、戦争が開始。安芸国西部は戦闘の最前線となり、多くの犠牲が出ました。佐伯郡の20町村が戦場と化し、2,067戸が焼失。1万人もの領民が巻き込まれました。幕府軍は各戦地で負け続けていましたが、14代将軍家茂が亡くなったのを機に停戦を決意します。停戦合意に向け勝海舟がやってきて、厳島大願寺で協議。広島藩は縁の下で奔走しました。
世が明治維新へと突き進む中、広島藩の活躍は薩摩・長州・土佐と並ぶものでした。広島藩は、慶応3年(1876)薩摩・長州と三藩同盟を結び討幕派の中心となっていましたが、その一方で土佐藩とともに幕府に大政奉還を働きかけ実現させます。しかし、鳥羽・伏見の戦いを初めとする戊辰戦争で十分な働きができず、維新の主流から外され、明治政府の中枢に入ることができなかったといわれます。