解説集

江戸時代の産業

広島藩に平地はわずかしかなく、耕地面積が少ないにも関わらず米の生産量は多く、良質の米が取れていました。また多様な自然環境の中で、中国山地や内陸部では、和鉄、和紙、麻糸、木工の生産が進み、瀬戸内沿海部では、塩、綿、畳表、牡蠣、海苔、海産物、沿岸漁業などの産業も盛んでした。浅野氏は、綿・和鉄・和紙を専売し、藩の財政を強化。特に大坂との取引に力を入れ、巨大市場の獲得により藩は大きく発展しました。産業の発達を支えたのが瀬戸内海の海運と、太田川水系の舟運です。水運の発達が広島藩を西日本有数の商業都市として盛り立てていきました。

特徴的な産業を見てみましょう。

綿

             牡蠣
平賀家文書(『芸備孝義伝』三編10巻)
広島県立文書館寄託・写真提供

広島県域を含む瀬戸内海沿岸地域には,古くから各地に干潟が多く点在していました。江戸時代になると,農地拡大をめざして干潟を陸地化する干拓事業が盛んに行われました。これらの干拓地は「〇〇新開」などと呼ばれました。海中に土砂等を投入して陸地化する埋立地と違い,自然地形である干潟を陸地化した干拓地は、土壌が均一になるため農業に適しているといわれます。
当初は稲作も進んだものの,塩気の強い土壌でも育つ綿の栽培が始まると比較的利潤の大きい綿花栽培は一気に拡大。産品は,綿,綿糸,綿布など加工品を含む綿産業へと広がり,「安芸木綿」と呼ばれて、広島藩有数の特産品になりました。
江戸の世の広島の沿岸地域には,夏~秋には一面に綿の白い花が広がり,青い海とのコントラストがとても美しかったことでしょう。


干拓によって開拓された土地は田畑に適さないことも多く、塩田として発展した場所もたくさんあります。竹原をはじめ尾道や三原を中心に、製塩が活発に行われました。竹原では、赤穂藩(浅野氏の分家)から習った製塩技術をいち早く導入。海水の運搬を、それまで主流だった人力による揚げ浜式でなく、潮の干満を利用した入り浜式にすることで、安価で良質な塩を生産。北前船によって全国に流通しました。一方で、塩づくりが盛んな地域では、薪炭のための伐採により自然林が減少したという側面もあります。


牡蠣

牡蠣

少なくとも縄文時代には天然の牡蠣が食べられていましたが、養殖は江戸時代初期ごろに始まったようです。当時の養殖法は、竹や木の枝を干潟に立てて、牡蠣を付着させ養育するもので「ひび立て養殖」と呼ばれます。
広島の牡蠣はほとんどが大坂で販売され、運搬船を牡蠣船と呼んでいました。そのうち橋のたもとなどに船を係留して牡蠣の直販が始まり、江戸時代後期になると船上で牡蠣料理を供するものが現れました。


海苔

広島湾は波が穏やかな上、太田川から栄養豊富な水が流れ込み、海苔の生育に最適な場所です。広島は西国一の海苔の産地で、牡蠣と同様に古くから広島の特産として知られていました。江戸時代中頃にひび立ての海苔養殖が始まり、さらに江戸後期、紙漉きのように海苔を薄く精製する漉き海苔が、西国で初めて広島でつくられるようになり、海苔産業は大きな発展を見せました。


和鉄

和鉄
日本山海名物図会 5巻 [1]
(江戸時代 寛政9 (1797))
国立国会図書館デジタルコレクションより

広島藩領を含む中国地方の山間部には花崗岩が広く分布しており、古来から近世初頭まで、安芸・備後の北部で製鉄が盛んでした。しかし、原料となる砂鉄採集のための「かんな流し」によって大量の土砂が太田川下流域にたまり、広島城下などで氾濫しやすくなるため、浅野氏の時代になると、太田川上流での製鉄の禁止令が出されました。こうして次第に芸北地域での製鉄は衰退し、東城などの備北地域が中心となりました。この地域では、原料の砂鉄を採取する中で独特の景観が出来上がり、真砂土を採取して削られた残丘は「鉄穴(かんな)地形」と呼ばれ、現在でもその姿が残っています。
 江戸時代中期以降は「永代たたら」と呼ばれる製鉄体制が整い、数百人規模のたたら場が設置され、広島藩を代表する産業のひとつとなりました。


和紙

和紙
和紙
和田家文書
「国郡志御用ニ付郡辻書出帳 佐伯郡」より
広島県立文書館蔵

広島藩は豊富な水のおかげで、紙すきも多くみられました。和紙の主な原料になる楮(こうぞ)は山地や礫土など苛酷な環境下でも育ち、農地に適さないところでも栽培できたことと、副材料のトロロアオイも栽培しやすかったため、藩内のほぼ全域で和紙づくりが行われていました。
現在は、和紙作りは大竹和紙を残すのみになりましたが、江戸時代には特に山県郡・高田郡・佐伯郡などが有名で、「広島和紙」の産地として知られました。


銅蟲(どうちゅう)

銅蟲(どうちゅう)

銅蟲は、江戸時代の初めに広島藩主浅野氏に仕えた銅細工師の佐々木伝兵衛が仕事熱心なあまり、「銅の蟲(むし)」と呼ばれたことに由来します。銅板を叩いて整形し、表面に「ツチ目」模様を施し、わらで燻して磨き上げたもので、時代を経るほどに一層深い色としぶい光沢を帯びてきます。平成3年(1991)県の伝統的工芸品に指定されました。


熊野筆

熊野筆

熊野筆とは、広島県安芸郡熊野町で作られる筆の総称です。その歴史は江戸時代末期にはじまります。農地が少なかった熊野では、農閑期になると吉野地方 (現在の奈良県) や紀州地方 (現在の和歌山県) へ出稼ぎに行く農民が多く、その帰りに奈良・大阪・兵庫で筆や墨を仕入れて各地で行商を行っていました。次第に熊野でも筆づくりが行われるようになり、技術を習得した人々の技術指導によって筆づくりが本格化していったそうです。 1975年 (昭和50年) には県内で初となる国の伝統的工芸品に指定され、技術と伝統が現在へ受け継がれています。


広島仏壇

広島仏壇

江戸時代初期に紀州から移り住んだ飾り金具細工師や桧物細工師、塗師等の技術をもととし、その後、敦高という僧が京都・大阪に出向いて、仏壇・仏具の高度な製造技術を学んで帰ったことで、技術・技法が確立されました。広島仏壇は、経済産業大臣指定工芸品に指定されています。

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